hmd_tarakoのブログ

調べ物と考え事。

結婚した意味

たらこ@hmd_tarakoです。

もちこと結婚して3年経ってるぞ!前回「3年経ったしもう解禁してもいいかな」と昔の話をしたので、今回は今思ってることを書こうと思う。

度々ケンカはしてるんだけど、一度「結婚した意味ない」と言われるようなことがあって、それ以来「結婚することの意味とは?」「結婚の利点とは?」「自分は結婚の意味を与えられているのか?」「何をしてあげれば/して貰えば意味があるか?」とか考えたのでまとめておこうと思ってた。

追記(2021/09/03):他の結婚してる人も同じと思ってはいないし、もちこも同じ考えを持ってるということでもないです。僕自身の考えね、念の為。

結婚観

ところで単に「結婚してえ~」と言うのは「結婚できる間柄の人間関係が欲しい」と言い換えられるような気がするけど、実際結婚したら何が変わるんだろう。3年経ってるけど結婚を境に何か変わったか?というと特にそれまでと変わってないと思ってる。

つまり、共同生活することと結婚することの違い、これがあまり無いと思ってる。共同生活してるなら結婚しててもしてなくてもそんなに変わんないなあと。

共同生活と結婚の差

共同生活と結婚の差、社会的な面と法的な面ぐらいしか違わないんじゃない?と思ってる。仮にこの辺りの点を便利に使わないなら結婚せずに共同生活してても良さそうと思ってる。

社会的なところ

結婚してると社会的に便利だ。親戚の集まりに一緒に居ても何ら説明が要らなくなる。そもそも同じ家に住むことも当然のものとして扱われる。大体の場合は一緒に居ることを「結婚してるから」で理由付けできるようになる。

法的なところ

婚姻関係にあると法的に「家族」として扱われるので、法的な手続きで融通が利いたりする。

少なくとも日本では1人は他の1人に対してのみ婚姻関係を結ぶことができるので、1人1つのスペシャルなお気に入りマークを互いに交換する宣言と言えるかもしれない。

あ、あとどっちかの名字が変わるか。もちこの名字は珍しいので変えるの勿体ねえ~と言いつつ変わってもらった。夫婦別姓で何の問題があるんだろうね。

共同生活する意味

じゃあ「結婚する意味とは」の答えを求めるなら、そのほとんどは共同生活することの意味に一致するんじゃないか?

一緒に居たいので一緒に住む

ぶっちゃけ一緒に居ると楽しいので一緒に住むのだ。(世の中にはそうでもない人たちも居るらしいけども)

全く同じ思想は要らないけど、似た価値観を持っていると楽しい時は2人とも楽しいのだ。楽しいことは2倍に、悲しいことは半分にという言葉がある。

これ面白いかな?と思って言ったことで笑ってもらえると僕も楽しい。僕ももちこも互いにTwitterを見てるけど、もちこが面白いと思ってRTしたものは僕も面白いと思ってよくRTする。

人間は原則として自分ではない存在と一緒に居ると精神的な負担があると思うが、それを上回る一緒に居たい気持ちがあるんではなかろうか。

相手と一緒に居ることで感情的な気持ち良さを得られていればそれは共同生活の意味と言えそう。

共同生活の合理さ

しかし「一緒に居たいので一緒に住む」ことが共同生活をする意味の全てだとすると僕は「結婚した意味ない」とは言われない。

共同生活にいかなる利益があるか?「結婚した意味ない」と言われたそもそもの経緯は僕が「家事をしていない」と見なされたからだ。*1

家事の分担

家事分担は共同生活をする家庭で一般的に見られる。いやもう共同でなくてもただ生活するだけで日常を家事が占める割合は多いんだけども。全ての家事を1人でするのは負担が重く不公平なので、そんなことは2人で分けてやれば良いのだ。

妻はもっぱら家事だけを、夫はもっぱら仕事だけを、みたいなスタイルもあるだろうけどそれってしんどそう~って思う。

何にせよ共同生活しているなら家事は分担するのだ。家事を分担できていないから僕は「結婚した意味ない」とまで言われてしまったのだ。

ところで家事を分担するなら日毎に半々にするよりも、それぞれにとって楽だと思う方の家事に偏らせたほうが良いと思ってる。貿易理論でいう比較優位な家事に偏らせれば、結果的に2人の総生産が上がると思うからだ。

食器洗いと洗濯があって、自分が食器洗いの方が得意なら食器洗いだけやる。相手が洗濯の方が得意なら、相手は洗濯だけをやる。そうすると比較優位の考えでは同じ成果でも2人の総コストが少なくて済む。「相手と比べて自分は食器洗いが得意かどうか?」は考える必要はなく「自分は食器洗いと洗濯のどちらが得意か?」だけ考えれば良い。

一種の家事の貿易と言えそう。輸出・輸入して総生産を上げる。

きっちり「この曜日はこっちが担当」みたいな感じで半々にすれば、それはそれで不公平感がなくなると思うんだけどコスト面であまり変わらないと思うんだよね。むしろ「きっちり半々にして不公平感をなくす」のもまた大変なので要らぬコストを増やすかもしれない。

実際には得意かどうかや負担するコストは日々一定ではないので必ず常に同じ人がやる必要もないとも思う。一方が風邪ひいて熱出してればその人にとってあらゆる家事はコストが爆増するので一時的にもう一方が頑張るのもおかしくない。

様々なコストの軽減

家事だけに限らず、なにかと2人でまとめることは色々なコストを減らすと思う。ここでいうコストとは金銭的・時間的・精神的なもの。

  • 2人がそれぞれの家に住んでるより、2人用の家に住めば同額でもより都合の良い家に住める。
  • 2人がそれぞれ何かの手続きをするより、まとめればそれに掛ける時間も間違っているかの確認や知識の習得も少なく済む。
  • 2人がそれぞれ1日3食の献立を考えると計6回の検討が発生するが、2人分で作れば計3回で済む。

経験的にこの辺りのことが言える。 他には、買い物に行く時2人分まとめて買うと得だ。それは大量に買うと割引される、とかいう話に限らない。

  • 買い物する商品の値段
  • 商品を持ち運びする労力

この上記2つはおおよそ変動費的に増える。2人分なら約2倍、3人分なら約3倍といった感じだ。

  • 買い物に行くぞという気持ちを起こす労力
  • 買い物する店と家を往復する時間

この上記2つは固定費的だ。2人分でも3人分でも大して変わらない。

コスト = 固定費 + (変動費単価 * 人数)

で考えると、買い物の回数は少ないほど・人数をまとめて買うほど固定費が減って総コストが少なくなる。実際には理想的な固定費・変動費ではないかもしれないけど、ざっくりとこんな認識をしている。

つまり、まとめられるものをまとめていれば大体得するのだ。

共同生活することで得られる成果を増やす

ここまで書いててだんだん考えがまとまってきた。共同生活に見いだされる意味とは「2人がバラバラに生活して得られるはずだった成果」を「2人が共同生活して得る成果」が上回ることだ。

ここでいう成果とは、消化できたやりたいこと・やるべきことの質や量と言えるだろう。

AとBの2人が独立して生活した場合の成果を(100, 100)とした時に、それを共同生活で(120, 120)とかにできれば共同生活は意味を成す。(110, 130)だとちょっと不公平に見えるかもしれないけど(100, 100)より優れているので大いに意味はあるし、たとえ(100, 150)だとしても良い結果だ。

(90, 120)だと片方のパフォーマンスが落ちてるので改善した方が良いかもしれない。(90, 110)だと合計が変わらないから勿体ないな。

上記の家事の貿易とかコストの軽減とかで言ってたのは、結局の所同じ成果を出すのに必要なコストを減らすことだ。

金銭的・時間的・精神的なコストを減らすことができれば、余力が生まれる。余力はより多くの成果を出すことに繋がる。

共同生活でコスト効率を良くする、それが共同生活の意味の一つっぽい。ただし、コスト効率は目で見て分かりにくいので常に互いの不公平感とも戦うことになると思う。

さいごに

もちこがスプラトゥーン2の大会に向けて数ヶ月全ての家事を頼みたいと相談してきたことがあった。もしも僕が「負担は半々でなければならない」と考えていたら不公平感を募らせていただろうけど、家事を偏らせるのは2人で共同生活してるからこそできることで、それによって得られる独特の成果は他に代えがたい。

最終的に「成果」の合計が基準を上回ればよいのだと思う。2人の間で成果の伸びに偏りがあったとすればそれは相合い傘して1人が肩を濡らすようなものとして受け入れよう。

そしてこれは3年前から今も変わらず思っていること。

*1:僕が「家事をしていない」と見なされた:言い訳は!あるけど!それは置いておこう。